AIをめぐる話題はこれまで「言語モデルがどれだけ賢くなったか」「推論コストがどれだけ下がったか」に集中してきた。しかし2026年5月、より静かで確実な変化が進んでいる。モデルの性能比較やコスト競争の裏側で、AIが工場の床を歩き、体内に入る薬を設計するという現実が着実に積み上がっている。フィジカルAI(物理世界で動作するAI)とAI創薬の最新動向を整理する。
人型ロボットが「実験場」から「量産工場の床」へ
Physical Intelligence社(通称π社、サンフランシスコ)は2026年3月、汎用型ロボット基盤モデル「π1」を正式発表した。同社はOpenAIやDeepMindの研究者を多数集めて2023年に創業。2024年10月には初のモデル「π0」を公開しており、π1はその後継となる。
π0とπ1の最大の違いは「ゼロショット転移性能」の大幅な向上だ。ゼロショット転移とは、まったく見たことのないタスクや環境に対し、追加の訓練なしに対応できる能力を指す。π0は基本的な物体把持や折り畳みには対応していたが、新しい環境に置くと失敗が多かった。π1では視覚情報と触覚フィードバックを統合したマルチモーダル推論エンジンを搭載し、新しい部品の形状や作業台の配置を「見ながら考えて」対応できるようになった。同社の発表によれば、溶接・組み付け・箱詰めといった製造ラインタスクで90%超の成功率を達成したという。
商業展開でも具体的な動きがある。Figure AI(カリフォルニア)は2024年からBMWザウワーランド工場でヒューマノイドロボット「Figure 02」の試験導入を続けてきたが、2026年4月に正式量産フェーズへ移行したと発表した。現在25台が車体構成ラインで稼働しており、2026年末までに200台体制を目指す。
Agility Robotics(アマゾン子会社)の「Digit」は倉庫内でのトート(搬送容器)の移動・スタックを自律で行い、米国内で600台を超える実稼働台数に達したとIEEE Spectrumが報じている(2026年5月時点)。
人型ロボットが「実験場」から「工場の床」に移ってきた背景には、技術以外の要因もある。米国の製造業回帰(リショアリング)政策のもとで人手不足が慢性化し、企業がロボット投資を前倒しする動機が生まれた。さらに、LLM(大規模言語モデル)が生成したコードでロボットの動作プログラムを作れるようになったことで、設定・再プログラムにかかるエンジニアリングコストが大幅に下がった。かつては専門エンジニアが数週間かけてプログラムしていたタスクが、自然言語の指示から半日で生成できるようになりつつある。
もう一つの注目動向がオープンソース化だ。Google DeepMindは2025年にOpen X-Embodimentデータセットを大幅拡張し、複数メーカーのロボットが同じ基盤モデルを共有できる基盤を整えた。これにより、個社が独自にデータを集めてモデルを訓練するコストが下がり、中小ロボットメーカーでも高品質な知能を利用できる構造が生まれつつある。
実務上の示唆
- 製造業・物流業はロボット導入コストが想定より早く下がる可能性があり、2〜3年の設備投資計画を見直す価値がある
- ロボット基盤モデル(π1など)の進化は「特定タスク専用機」から「汎用作業ロボット」への移行を意味する。設備更新サイクルの考え方が変わる節目に差し掛かっている
- LLMによる動作プログラム自動生成は、ロボット設定の内製化を現実的な選択肢にする。従来は外部ベンダー依存だった部分が変わりうる
- 日本の製造業にとっても参考になる動向だが、国内では労働安全衛生法・JIS規格への対応が導入の先決事項となるため、規制面の動向も並行して追う必要がある
AIが設計した薬が世界初の最終承認審査へ
創薬(新薬の研究・開発)は通常10〜15年を要し、数千億円規模のコストがかかる。その中でAIを使って候補化合物を絞り込む「AI創薬」は2020年代に急速に広まったが、2026年5月、初のAI主導設計の薬が規制当局の最終承認審査段階に到達したと複数のメディアが報じた。
中心にいるのは香港・北京を拠点とするInsilico Medicine社だ。同社が開発したIPF(特発性肺線維症:肺が徐々に硬くなる難治性疾患)治療薬「INS018_055」は、ターゲット探索からリード化合物(有望な化合物の原型)設計までをAIが担った。2025年末の公表では第2相臨床試験(中規模の安全性・有効性確認試験)の完了が発表されており、2026年5月にはEndpoints NewsとIEEE SpectrumがFDA(米食品医薬品局)および中国NMPA(国家薬品監督管理局)への申請資料提出と、第3相(大規模な最終臨床試験)の承認審査入りを報じた。
AIが創薬の全工程を担うのは何が新しいのか。従来の創薬は、研究者の直感と膨大な実験を繰り返してターゲット(薬が作用させるべきタンパク質)を特定し、候補化合物を探す。INS018_055の場合、AlphaFold2(タンパク質の3D立体構造を予測するAI、2021年にDeepMindが公開)を活用してターゲットを選定し、Insilico独自の生成AIモデルが数十億通りの分子構造の中から候補を提案した。コンピューター上での予測から動物実験、臨床試験の設計まで、従来より約30〜40%短い期間で進められたという。
DeepMindのIsomorphic Labs(2021年設立の創薬子会社)も動いている。AlphaFold3(タンパク質と薬物候補分子の相互作用まで予測できる2024年版の後継)を活用してイーライリリー、ノバルティスとの共同研究を進めており、こちらも2026年中に最初の前臨床(動物実験フェーズ)結果が出る見通しとされている。
AI創薬が本格化した場合、どんな変化が起きるのか。まず開発期間の短縮と費用の圧縮が見込める。次に、これまで「ターゲットが見つからない」として後回しにされてきた希少疾患・難治性疾患への挑戦が増える。一方で、AIが提案した化合物の安全性は依然として動物実験・臨床試験で確認が必要であり、「AIが設計したから安全」という保証はない。規制当局もこの点を注視しており、AI創薬特有のリスク評価フレームワークの整備を急いでいる。FDAはすでに「AI/ML活用製品の規制枠組み」を議論する専門作業部会を発足させており、承認審査のルール自体が現在進行形で書き変えられている最中だ。
実務上の示唆
- 製薬・バイオテック業界に関わる企業は、AI創薬ツールの採用がもはや研究開発費の削減手段ではなく競争優位の源になりうることを認識する必要がある
- AlphaFold3・RoseTTAFold2などのタンパク質構造予測ツールはすでに商用利用可能な状態にあり、初期探索フェーズへの活用余地は大きい
- 日本の製薬会社は欧米のAI創薬スタートアップとの提携、あるいは自社内へのAIチームの内製化という二択を迫られる局面が近づいている
- AI由来の化合物には特有の規制リスクがある。どのAIが、どのデータで、どう設計したかという説明責任を求められる。今から記録・文書化の体制を整えておくことが重要だ
まとめ
2026年5月のAIニュースは「言語・推論モデルの更新」が絶えない一方で、より静かで確実な変化が進んでいる。工場の床で動く人型ロボット、体内に届く薬を設計するAI。どちらも「試験運用」や「論文の中」という段階を超え、商業・規制の現実に根ざした段階に入りつつある。モデルの賢さを競うフロンティア競争と、物理世界に踏み込む応用の深化。この二つの流れが同時進行する中で、次の12〜18ヶ月で「最初の量産・承認事例」が蓄積されることにより、AIの社会的インパクトを測る新たな尺度が生まれるかもしれない。